『ポルポトの掌』三輪太郎
1994年、内戦続くカンボジアの空港に、一人の日本人男性が降り立つ。
31歳で株ディーラーを引退した男は、生涯のライバル・賀来修一の生死を確認するために、この地に足を踏み入れたのだった。
本書の中で、男は「ぼく」としか書かれていない。周りの人間の名前は明らかにされているのに、だ。けれど、主人公の名前を知ることは、あまり問題ではないのだろう。語り手の「ぼく」は、大海原の中で頼りなげに浮かぶちっぽけな小船のような存在に思える。
第一回日経小説大賞佳作の本書は、これまでの「経済小説」とは少し趣が異なる。ここでは、株取引、バブル、ムラ社会や資本主義経済社会の功罪など、90年代の日本経済が映し出されている。だが、作者が本書で描いていることは、日本経済の総括ではなく、「ものごとを多面的に見る目」なのだと思う。
自分が今見ているものが、全てなのか。何が善で、何が悪なのか。本当にものごとを正しく判断しているといえるのか―。そんな問いを突きつけられているのではないだろうか。
作中、欲望に翻弄されないための姿勢として、椀に入った丸茄子田楽を通して説明する場面がある。
もし、自分が丸茄子田楽なら、椀の外が見えない。椀の外が見えないということは、椀の外がナイも同然だ。外がナイということは、椀の内が全体であって、椀の内と外との境界線もナイということだ。つまり、外が見えないということは、外がナイだけでなく、内すらナイということだ。(P.136)
「井の中の蛙、大海を知らず」のことわざが思い浮かぶが、これは、「比較」の意義からも興味深い指摘である。外の世界を知るからこそ、自分のいる世界がよく見える。
主人公は、株の世界の第一線で働いてきた、いわば資本主義経済のスペシャリスト。かたや、独裁主義で多くの人間を虐殺したポル・ポト政権。日本を離れた主人公は、異なる価値観をもつカンボジアで、日本を見つめることになる。そして、自分の信じていたものが本当に正しかったのか、自問自答し、自らの内面まで探索することになるのだ。
人は、見えざる手に翻弄されるしかないのか。人自身がその「手」になろうとすれば、待っているのは悲劇でしかないのか。本書で求められているのは答えではなく、問いそのものなのだろう。終始、禅問答のように展開される作品である。
ただ、ライバルの存在は必要だったのか、彼がなぜカンボジアに向かったのかなど、設定に不満は残る。[Amazon]



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