『カシオペアの丘で(上・下)』重松清

重松清さんの作品が好きで、よく読む。
彼の作品を読むと、人間の弱さやずるさすら愛しく感じる。そんな重松さん節を堪能できるのは、やはり長篇小説である。
物語の舞台は、北海道。
丘の上で満天の星空を見上げた4人の子どもたちは、30年後、ある痛ましい事件がきっかけで、再び思い出の地に集うことになる。無邪気に未来を夢見ていた子どもは、もういない。故郷を捨てた一人は病魔に侵され、地元に残った一人は経営難と闘い、紅一点の一人はその伴侶となり、ムードメーカーだった一人は東京で独り身を貫く。人生の半ばを迎えた彼らは、「死」という現実を前にして、過去を振り返り、やがて未来に目を向けるようになっていく。
死、人を許し人に許されることの大切さ、家族の絆といったものを真正面から描いた本書は、重松さんらしい優しさに溢れた作品である。
だが、「○○らしい」というのは、果たしてその作家に対する賛辞なのだろうか。たんに、読者の想定内で収まっているだけなのではないか。
「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」とは、『アンナ・カレーニナ』の有名な書き出しだが、社会の最小単位である家庭は、その社会の姿を映し出す鏡といえる。その意味で、初期からひたすら「家族」を中心に据え、幸福の形を模索し続けてきた重松さんの慧眼に感服する。
それでも、敢えて言わせていただくと、重松さんは一度、「家族」というものから距離を置いた方がいいのではないか。
すべて家族の話に集約してしまうので、どれも似た印象を受けてしまうのだ。本書は、『その日のまえに』と『トワイライト』(もしくは、『カカシの夏休み』)の合わせ技のような作品といえる。死を扱った、ノスタルジー漂う物語。テーマが明確で、きれいにまとまっているから読みやすいが、その「うまさ」が気になる。
宇宙は果てしなく広大で、人の心も限りなく深遠なのに、その両方を描いた本書は、なぜか小さくまとまっている。それは、前述した、死、許し、家族といったテーマに登場人物すべてを当てはめようとしたからだと思う。
確かに、これらは人と関わって生きていく以上、誰しも避けては通れない。けれど、「死」を描くのに、余命わずかの人間を登場させて涙を誘う必要があるのだろうか。「家族」を描くのに、親子と夫婦の関係を強調する必要があるのだろうか。その分かりやすさが、薄っぺらく、作りもののきれいさに映る。カシオペアの丘に関係者がみな集まって来る、というのがその典型だ。
好きな作家だから、ことさら厳しい目で見てしまうのかもしれない。初めて読んだのがこの作品なら、感動しただろう。しかし、このままの作風が続くなら、別に新作を読む必要もない。もっと深化した家族の姿や、死生観を見せてくれるのなら別だが。
結局、人は生きたようにしか死ねない。直前の「生」を描いたところで、真に「死」を語ったことにはならないだろう。倉田千太郎の人生に焦点を当てた方が、余程おもしろいものになったと思う。[Amazon]



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