『錦繍』宮本輝

錦繍 (新潮文庫)『錦繍』は、傑作だと思う。
いくつか気に入らない表現はあるものの(「ちょうど相撲に譬えると…」(P.124)のくだりや、育ちの良い女性が「浪花女のド根性」という言葉を使うことの違和感など)、それでもやはり素晴らしい小説である。
あらすじや、男女の往復書簡で綴られていく小説形式ついては、巻末の解説や他のレビューサイトに詳しいので、そちらに譲ることにする。ここでは、宮本輝さんがこの作品で用いている「生命」という言葉の意味について考えてみたい。

古今東西、「死」を取りあげた文学作品は多い。
誰しも、自分の分からないことには漠然とした恐怖を感じる。死はその際たるものだろう。死んだ後、どうなるのか。死後の世界はあるのか、ないのか。作家は、捉えどころのない「死」というものに、あらゆる言葉を駆使して意味を与えようとする。
そもそも、「死んだらなにもかも消えてなくなる」との立場の人からすれば、死後の世界を考えるなんて、なにかに取りつかれた、馬鹿げたものでしかないだろう。
しかし、死んだ後どうなるかは(死んでみない限り)誰も知らない。少なくとも、「ない」ではなく、「分からない」と言うべきなのだ。

死によってその生命のすべてが消えて失くなるという考えは、もしかしたら人間の傲慢な理性によって作りあげられた大いなる錯覚ではないのか。(P.141)

との言葉に耳を傾ける必要がある。

とはいえ、作家が「死」を好んで描くのは、潜在的な不安に駆られたからだけではないだろう、と思う。「死」(もしくは死後の世界)を捉えることは、「生」そのものを考えることに繋がるのではないだろうか。
例えば、「死んだら極楽浄土に行ける」という立場なら、苦しい世界とはさっさとおさらばして死んだ方がずっといい。
あるいは、「善い行いをした者は天国へ、悪いことをした者は地獄へ行く」という考え方はすっきりしてイメージしやすい。ただそうなると、悪いことも良いこともそれなりにしてきた私は、死んだらどこへ行くのだろう。
死を見つめることが、「どう生きるか」という問題に戻ってくる。だから、作家は「死」について書かざるを得ないのではないか。

生きているここと、死んでいることとは、もしかしたら同じことかもしれへん。(P.81)

この言葉を境に、一方的な思いを綴っていただけの手紙が、自身の内面を深く見つめる往復作業へと変わってゆく。
日々のふとした瞬間の中で女は「死」を感じ、死の淵で男が見たものは、「命」そのものであった。
宮本さんはこれを、「霊魂などでは断じてありません。それは色によっても形によっても、ましてや言葉などでは到底表現することの出来ぬ、生命というもの(P.143)」という言葉で表現している。相反するかに思える二つの現象は、「生命」という次元でみれば同じなのだ、と。そしてその「生命」には、これまで自分の為した悪と善が「業(ごう)」として刻まれているのだ、と。そんな「宇宙の不思議なからくり(P.90)」とでもいう法則に貫かれているのだ、と。
タゴールの詩には、宗教詩かと思うほど「神」という言葉が頻繁に出てくる。けれど、彼のいう「神」とは、ある特定の宗教の神様ではなく、なにかもっと広い意味で使われているように感じる。もしかするとそれは、宮本さんの書いている「宇宙の不思議なからくり」や「生命」と同じものなのかもしれない。

もっとも、本書に書かれたことが正しいかどうかは分からない。
でも、そのように「生」と「死」を捉えると、これほどおそろしく、また、合理的なものはないのではないか。要は、「全部自分もち」なのだから。この考えに至ったからこそ、過去にこだわっていた二人は、現在の自分を省み、未来に目を向けるようになってゆくのだ。
ただ本書では、各々の人間に刻まれた「業(ごう)」をどうやって乗り越えればいいのか、は書かれていない。それに答えるのが、宗教や哲学といったものなのだろうか。
おぼろげではあるが、「生」と「死」を切り離して考えるから、「死」を過大評価、あるいは過小評価してしまうのかもしれない。登場人物の悲劇的な死で涙を誘う話題作に引っかかるのも、殺人や自殺などの痛ましい事件が一向に止む気配がないのも、根本のところでは同じなのではないか、と感じる。[Amazon]

  1. コメントはまだありません。

  1. トラックバックはまだありません。