『白河夜船』吉本ばなな
読書というのは、つくづく個人的なものだと思う。
そして本を読む「わたし」自身も、刻々と変化しており、置かれた状況や、精神状態、経験などによって、同じ本を読んでもひとつとして同じものはない。傑作に思えた作品が、しばらくして再読すると凡庸なものに感じてしまうことなど、ざらである。けれど、それがまた面白い。
本書を久しぶりに読み返してみた。
吉本ばななの作品は、心底疲れたときによく効く。風邪をひいたら薬を飲むのと同じように、心がぼろぼろで、どうしようもなく疲れてしまったら、彼女の本を開くといい。
彼女の作品はだいたい好きだが、この『白河夜船』は、格別の思い入れのある一冊である。それは、本書の主人公と同じで、私も死んだように眠り続けていたからである。当時の私は精神的にかなりまいっていて、昼と夜の区別なく、いつ眠りについたか分からないくらい、夢と現のはざまを彷徨っていた。このままではいけない。理性はか細い声でそう訴えるのだが、身体は頑として従おうとしない。ようやく目覚めると自己嫌悪に陥る。その繰り返しだった。
そんな状態の中で読んだ本書に、正直私は救われた。「眠る」という行為に、罪悪感を抱かなくなったのだ。休んでいいのだ、と思えた。そして、どんなに情けない自分でもありのままに受け入れられるようになった。ほんの小さな変化だが、そのとき心のベクトルが確かに変わったのだ。
夜三部作と呼ばれる本書には、3つの物語が閉じ込められている。
ここの住人たちは、薄紙で覆われたかのように、周りの人間より姿がぼんやりして見える。友だちや家族、恋人の死、報われない恋に疲れ、夜の世界に引っ張られているのだ。本書の「夜」は、「死」と置き換えても違和感なく読める。というより、同義なのだろう。
表題作「白河夜船」の主人公は、深い夜の底からようやく立ち上がり、ある思いに至る。
それは、友達を亡くし、日常に疲れてしまった私の心が体験した小さな波、小さな蘇生の物語にすぎなくても、やっぱり人は丈夫なものだと思う。こんなことが昔もあったかどうか忘れてしまったが、ひとり自分の中にある闇と向き合ったら、深いところでぼろぼろに傷ついて疲れ果ててしまったら、ふいにわけのわからない強さが立ち上がってきたのだ。(P.74)
この文章が、乾いてささくれだった私の心に、じわじわと染み透ってきたのを覚えている。
ところが今回読んでみると、疑問が頭をもたげてきた。不遜を承知の上で書くと、「ひとり自分の中にある闇と向き合」い、「深いところでぼろぼろに傷ついて疲れ果ててしま」えば、「ふいにわけのわからない強さが立ち上がって」くるものなのだろうか?
たしかに、人間にははかり知れない力が秘められていると思う。だが、その力を引き出すのが至難の業だ。経験上、一人で考えすぎると、堂々巡りの悪循環に陥ってしまうことの方が多い。そこから抜け出すためには、他者との関わりによって「わたし」に埋没しないことが必要なのではないだろうか。とことん自分の心の奥底を見つめた後の友だちの助言に、私はどれだけ救われたか分からない。
傷ついた心が回復する過程に、いくつかの段階がある。
そして吉本ばななの作品は、初期の段階によく効くのだ。「頑張れ!」という激励ではなく、「大丈夫」という安心を与えてくれる作家なのだと思う。しかし、人はいつまでも「人生の流れの中で、ここだけ空間も、速度も違う」「閉ざされていて、とても静か」 な夜に安住するわけにはいかない。いつかはこの世界から漕ぎ出して、猥雑な光を体いっぱいに浴びなければならない。
彼女の作品を冷静に読めるのは、元気な証拠なのかもしれない。

ところで、『白河夜船』は、新潮社と角川書店からそれぞれ文庫本が出ている(福武文庫は絶版なので除外)。
収録作品も値段も同じなので、どちらを買ってもいいだろう。ただ、角川文庫があまり好きではない私だが、ここは角川版を推したい。
「こういう、濃いブルーよ。目も耳も言葉もすべてここに集中してしまうような、閉じ込められた夜の色よ。」(P.142)という本書の「夜」を表現した表紙が素晴らしい。[Amazon]



吉本隆明のものを読んだことがありません。何か一冊読みたいのですが、ぐらさんのオススメは何でしょうか。
>真理子さん
吉本隆明ですか!
これはまた、深遠なところに入っていかれるんですね。
ただ、わたしは彼の著作を一冊しか読んだことがないので、
アドバイザーとしては落第かと・・・。
著作数が多い人の「何か一冊」を読みたいときは、
代表作(と呼ばれるもの)か、リーズナブルな文庫本から手に取るようにしています。
代表作が難解であれば、入門書から読み直してみたり。
(分野は違いますが、森岡正博なら『無痛文明論』からじゃなく、『生命学をひらく』あたりから読んだ方がいいように)
ちなみに、わたしが吉本隆明の本で読んでみたいのは、『源実朝』。
小林秀雄のものと読み比べてみたいです。