『鹿と少年(上・下)』マージョリー・キナン・ローリングズ

「仔鹿(子鹿)物語」というタイトルに馴染んでいたので、「鹿と少年」は突き放したような素っ気なさを感じる。しかし、甘さを廃したこの作品には、こちらの邦題の方がふさわしい。ちなみに、原題は「The Yearling」で、たんに「満一歳を過ぎた動物(ここでは鹿)」である。
日本に限っていえば、本書が児童文学の枠の中で語られてきたのは、「仔鹿物語」という邦題に拠るところが大きいのではないだろうか。
私自身、はじめてこの作品に触れたのは児童書を通してだったのだが、年齢の違いがあるとはいえ、当時感じた牧歌的な雰囲気と今回受けた衝撃との落差にしばし呆然としてしまった。子ども向けの本は、読みやすさを優先してたいてい抄訳で紹介されている。だが、削られ、簡略化されたエピソードの積み重ねが、登場人物たちの心情や作品の素晴らしさをくっきりと浮かび上がらせていることが、今回の新訳を読むとよく分かる。
子どもの頃読んでストーリーを知っている人も、是非この『鹿と少年』を手に取ってみてほしい。『仔鹿物語』とはこれほど過酷で奥の深い物語だったのか、と目が覚める思いがするはずだ。
これまで「森で暮らす少年と仔鹿の友情と別れ」という単純な図式で理解していたせいか、フロリダ州北東部の荒地を開墾するジョディ一家の暮らしぶりが延々と続くので、やきもきしながら読み進めた。ようやく仔鹿が登場するのは、上巻の終盤である。物語の大半は、矮樹林(スクラブ)の自然や、そこで自給自足の生活を送る家族の日常を描き出す。
科学技術の進歩によって現代人は利便性を手に入れたが、それと引き換えに希薄になったのが「生命」の実感なのではないだろうか。スーパーでは切り身の魚や肉がパックになって売られ、ほとんどの人は病院で息をひきとる。「死」は忌むべきもので、できるだけ人の目の触れないように遠ざけられる。
本書では狩りに出かけるところから、仕留めた獲物が食卓に上るまでが活写されている。動物を殺す場面は気持ちの良いものではないが、食べ物を気軽に捨てる現代人と、獲物を無駄なく使い切るジョディたちとでは、一体どちらが残酷か。
ここで描かれるのは、剥き出しの「生」と「死」である。一日一日を生き抜くために土地を耕し、動物を狩る。ジョディは父・ペニーの姿を見ながら、生きることの厳しさ・残酷さを身体で覚えていく。仔鹿との交流は、少年の置かれた状況を物語る象徴的な出来事なのである。
食の安全や食料高騰が問題になっているとはいえ、今の日本で切実に「飢え」に怯える者は少ないだろう。ただ、人生の苦しみに直面することでは、物語の世界となんら変わらない。
「人生は人間をぶちのめす。立ちあがると、またぶちのめす。(中略)ぶちのめされたら、どうするか?それが自分の背負うものだと受け止めて、前に進むしかないんだよ」(下巻P.392)とは、ペニーが息子に語る言葉。
生命の実感が希薄になっている今だからこそ、本書を読む価値があるのではないだろうか。[Amazon]
アメリカ:土屋京子・翻訳
The Yearling
Marjorie Kinnan Rawlings





ぐらさん、こんにちは。
そうですよね、今は肉も魚も切り身になって、きれいにパック詰めになって
美しくお化粧して並んでいますよね。
主人の実家のある台湾では、市場に行くと黒や白の鶏が大きな金網のケージに入って
売られています。生きのよさそうなニワトリを選んで「これちょうだい。」
って言うんです。そして、市場を一回りして帰ってきた頃には
ぽわんっとあたたかい一羽ぶんの鶏肉が、ビニール袋にはいって待っています。
もちろん、頭から足まで全部食べますよ。
子どもたちには、はじめはショッキングだったようですが(私も!)
でも、こうやって命を頂いていると思えるようになってくれました。
生きていくって、本当はこういう事だったんだって、再確認させられます。
偉そうに書いてますが、わたしは魚をさばいたこともないし、ネズミ取りにネズミがつかまっていただけでも、「ひいい~」と言っているような体たらくです。
それにしても、生きた鶏を選ぶんですか!
肉として吊り下げられた状態はよく見ますが、ところ変われば、ですね~。
加工されたものを買うのは便利だけど、ふうたんさんがおっしゃるように、「命を頂いている」という感覚が薄らぐような気がします。
学生時代、「いただきます」を言わずに食べる友だちがいてびっくりしたのを思い出しました。
(向こうも、わたしに驚いていましたが)