『密会』ウィリアム・トレヴァー
思えば子どもの頃、世界はもっと単純で分かりやすかった。できることは限られていたのに、なんでもできるような気がしていた。
いつだったろう、白でも黒でもない、グレーゾーンの存在を知ったのは。悲しいのに笑い、嬉しいのに切なくて泣きたくなる。そんな言葉にできない感情をもてあますようになったのは、いつからだったのだろう。
本書には、12の短篇が収められている。どれもとりたてて何かが起こるわけではなく、ほとんど取るに足らないような出来事ばかりである。表題作の「密会」にしても、その甘く危険な香り漂うタイトルとは裏腹に、寸暇の密会を重ねる男女の姿はいたって穏やかなものだ。
ところがウィリアム・トレヴァーの手にかかると、市井の人々の些末な日常が、とたんに意味を持ち始める。大仰な言葉で「人生とはなにか」と説くのではなく、ありふれた情景で人生の奥深さや心の深淵を語る手腕に、思わずため息がもれる。
冷静で淡々とした筆致は、登場人物たちを突き放すかのようだ。だがむしろ、初対面の女性に夕食をおごらせようと企む男や、夢破れて故郷に戻った男、別れた妻につきまとうストーカー男といった弱くてずるい人間に、作者のあたたかなまなざしが向けられていることに気づくのである。
情けない男性ばかり紹介したが、女性もさまざまな思いを抱え、苦悩している。ただこの作品集で女性は、暗い淵にたたずむ人々に与えられたひとすじの光(希望とまでいかなくとも、安らぎ・癒しの存在)として描かれているように思う。けっして爽やかとはいえない物語なのにそれほど重苦しく感じないのは、そんな救いが用意されているからではないだろうか。
ウィリアム・トレヴァーは、アイルランド出身の作家。
数多くの長短篇を世に送り出し、「英語圏で現存する最高の短篇作家」と称されるほど高い評価を受けている。20ページほどの短篇のために、彼がずっと多くの背景を書き込んでいるのも納得の奥行きある作品群である。
なかでも、妻を寝取られて傍観する老教師の苦悩を教え子の視点で描いた「ローズは泣いた」は秀逸。過去と現在いくつもの場面が断片的に綴られ、ある秘密を共有する二人の胸の内に迫っていく。少女の想像の中で語られる一組の男女の物語だけでも、ひとつの作品になりそうだ。
派手さはないが、登場人物たちの抑えた激情がじわじわと心に染み入るトレヴァーの作品集は、短篇小説の醍醐味をあますところなく伝えた一冊である。[Amazon]
イギリス(アイルランド出身):中野恵津子・翻訳
A Bit on the Side
William Trevor

The Collected Stories
William Trevor




コメントはまだありません。