『風花』川上弘美
ある日、匿名の電話がかかってきて、こう告げられる。
お宅の旦那さん、浮気してますよ。相手の女性は会社の同僚で、関係は三年ほど続いてるんですよ。
ドラマなら、ここから修羅場が始まるのだろう。が、結婚して7年になる主婦〈のゆり〉の場合は、少し違う。彼女はその事実を知っても、夫を責めることも、浮気相手に怒鳴り込んで行くこともしない。どうすればよいのか決められないまま、半年間ただ傍観するのだ。
夫の不貞を知っても何らアクションを起こすことなく、現在進行形の浮気も黙認する妻。
夫からすれば、これはけっこう不気味である。怒りもせず今までと同じように接するのゆりに対して夫の卓也は、「魚みたいな目をしてる」と言う。自分のことを棚上げしたひどい言い草なのだが、むしろこの卓也の意見の方がまともに感じる。私なら、当然怒る。私なら、距離を置く。それでも修復が無理だと思ったら、別れる。いくつもの「私なら…」を思い浮かべてのゆりの振る舞いの異常さをあげつらう。それでも、すっぱり決断できない彼女の中途半端な立ち位置も、よく分かるのだ。
よほど精神力の強い人ならともかく、人は嫌なことや面倒くさいことには目を背けがちである。そういえば少し前に、いつからあったのか分からない食べもの(と思われる)を冷蔵庫の隅で発見したものの、「見なかったことにしよう」とそのまま扉を閉めた。次元は違うが、「正視したくない」という意味では同じかもしれない。
だが、いつまでも先送りにすることはできない。愚鈍にすら思えるのゆりは、平穏な日々に突然訪れた“事件”をきっかけに、結婚生活や自分の生き方を模索し始める。その歩みはあまりにゆっくりしたもので、じれったく感じるほど。
しかしラストは、覚悟を決めたのゆりの姿が、すがすがしい印象を残すのである。「東京駅で、のゆりは迷った。」という書き出しと比べると、別人のようだ。「立ち向かう」というほど大仰なものではないが、どこかイプセンの『人形の家』を彷彿とさせる作品である。
考えてみると、「のゆり」という名前が暗示的。川上弘美は、言葉の響きを大事にする作家だと思う。その一風変わった名前は、「のらりくらり」と振る舞い、「ゆらゆら」心が揺れて定まらない、のゆりそのものを表現しているのかもしれない。とはいえ、案外こんな女性の方がたくましいのではないか。卓也の恋人・里美のようなしっかり者の方が、ポキンと折れてしまう弱さを孕んでいると思う。
本書は、淡々と日常を紡いだ作品である。当人にとっては一大事である夫婦の危機すら、川上弘美の手にかかると、途切れることなく続いていく日常のひとコマに思えるから不思議だ。
ただ、そんな起伏のない物語の中にも、“尋常でない”描写がすっと入り込んでいて、ドキリとさせられる。いくら仲が良いといっても、歳の近い叔父と二人きりで温泉旅行に行くものだろうか。叔父の真人がのゆりの頭をなでる様子には、親愛の情以上のものを感じてしまう。のゆりと卓也の関係よりも、のゆりと真人の行方を固唾を呑んで見守っていた私である。[Amazon]



川上弘美【風花】
わたしはいったい、どう、したいんだろう。
のゆりは結婚して7年の夫に恋人がいると知ったが、なぜか涙も怒りも湧かない。離婚するかどう…
風花 川上弘美
装幀は清水栞。カバー作品は有元利夫。『すばる』掲載。
日下のゆりは33歳。結婚7年の夫・卓哉に恋人が発覚。どうしたいのかわからない…
こんばんは。
TB、コメントありがとうございます。
始めはもどかしく思ってましたけど、その後、棚上げしてるあれこれに気がついて納得でした。
「のゆり」の名前、なるほどです。
野の百合と思って、聞いたとき、ちょっとワイルドなイメージでした。
全然違ってて、かなり疑問でした。おかげでスッキリしました。
たくましさは最後に現れましたね。
野の百合!
それは思いつきませんでした。
言われてみればそうですね。
ちょっと苦手なタイプの女性ですが、
心の揺れや愛情のかたちが変わってゆく過程をさらりと描ける川上弘美さん、さすがです。
はじめまして、めるつばうと申します。
piaaさんのところからリンクしてきました。
書評を拝見しまして、ああ、なるほど!と思い
コメントをさせていただきました。
>「正視したくない」
そうですね。そうなんですね。それでも”日常のひとコマ”
になんでしょう。
こういった淡々としたところが好きなのですが、どこかしら
違和感もあります。
イプセンの「人形の家」も読んでみようと思っていながら
先送り。ちょうど金森穣のダンスとあいまってきちんと
読んでみようと思い立ちました。
はじめてお邪魔したのですが、たくさんのコンテンツがあって
わくわくしています。ゆっくりと拝見させていただきます。
めるつばうさん、はじめまして。
コメントありがとうございます。
この作品は、のゆりという女性を受け入れられるかどうかで、読み手の評価(というか印象)が変わってくるんじゃないかな、と思いました。
わたしはストーリーよりも、たゆたう流れに身を任せるのが、なんとも心地よかったです。
ところで、恥ずかしながら金森穣さんの名前を初めて知りました。
「人形の家」とダンスですか~。
どんな舞台なのか、想像もつきません。
でも、“踊らされている”という意味では、これほどマッチする組み合わせはないのかもしれませんね。
イプセン作品では、「人形の家」より「野鴨」の方が好きなので、こちらもオススメです。
風花<川上弘美>-(本:2008年157冊目)-
風花クチコミを見る
# 出版社: 集英社 (2008/4/2)
# ISBN-10: 4087712079
評価:85点
内容(「BOOK」データベースより)
夫に恋人がいた。離婚をほのめかされた。わたしはいったい、どう、したいんだろう―。夫婦の間に立ちこめる、微妙なざわめき。途方に暮れ…