『切羽へ』井上荒野

切羽へ伊坂幸太郎の選考対象辞退や、初の中国人芥川賞作家誕生の方に注目が集まって、直木賞受賞作なのになぜか影が薄い。内容も地味なので、直木賞という看板がなければ純文学好きの人ぐらいしか読まないような気がする。

だが、良い小説だ。
微妙なバランスで成立している夫婦関係、どうしようもなく惹かれてしまう心の不思議、思いを秘めた男女の恋愛模様。描かれる情景は静かで穏やかなのに、日常に潜む恐ろしさを覗いてしまったようで、ざわざわと心かき乱される一冊である。

表題の「切羽」とはトンネルの一番奥を意味する言葉だが、私にはぽっかり空いた穴のような垂直のイメージが浮かんだ。
映画のタイトルではないが、誰にでも秘密がある。
しかも、秘密を抱えていることを周囲はそれとなく気づいている。ときには、その中身ですら。
けれど、誰もはっきりとは口にしない。指摘すれば、いまの関係が崩れてしまうのが分かっているから。わざと予定日より早く帰ってくる夫を描くことで、妻の心境の変化や夫の不安、夫婦の危うさまで見せるところなんて、うまいなぁと思う。

九州の島で夫と暮らすセイ。彼女の幸福で安定した日常は、東京からやって来たひとりの男の出現によって揺らぎ始める。
この作品がおもしろいのは、「なにも起こらない」ことである。キスすることも、自分の思いを相手に伝えることもない。作者はただ、内面に広がる波紋を描いてゆく。なにかが起きてもおかしくない状態なのに、ドラマチックな展開にならないというのは、こんなにも緊張感に満ちたものなのか。

石和は指を二本、自分の唇にあてた。それからその指を私のほうへ近づけた。素早い、乱暴とさえいえる動きだったのに、指は私の唇の前でふっと止まった。(P.195)

性描写のある恋愛小説より、本書の方がよほど官能的でぞくっとする。

島を舞台にしていることも、物語に息苦しいほどの閉塞感を与えていると思う。
都会の喧騒から離れたのどかな情景が広がるが、皆が身内のような小さな世界。行動も筒抜けだし、自分の将来もある程度見えてしまう。セイが石和に惹かれたのは、彼の持つ不安定さ・揺らぎだったのではないだろうか。
切羽は、それ以上先へは進めない行き止まりの場所。切羽まで行って留まるか、トンネルを繋げて道にするかの違いが、守るものがあるセイと自由奔放な月江の違いなのかもしれない。[Amazon]

  1. コメントはまだありません。

  1. トラックバックはまだありません。