『神樹』鄭義
すさまじい一冊である。
樹齢数千年の〈神樹〉の突然の開花から始まる物語は、近代中国の歴史と過酷な運命に翻弄されてきた民衆の姿を鮮明に映し出す。もっとも、「鮮明に」とは、上品過ぎる表現かもしれない。ここで描かれる情景はあまりにも生々しく、いまにも血と涙が流れ出してきそうなのだから。
北京五輪の開会式で繰り広げられた、中国五千年の歴史絵巻が記憶に新しい。文字の発展や大航海の始まりなど、あちらが中国の輝かしい歴史だとすれば、こちらはいわば影の側面を描いたものといえるだろう。
神樹とは歴史の証人といえよう。そればかりでなく、歴史に参与していたのである。神樹は我ら人民の生命の歌と死の嘆きとに耳を傾けてきただけでなく、歴史の風雪はその堅牢たる身体に数々の傷跡を残している。(P.295)
この作品の根底にあるのは、強い怒りなのだと思う。
「死人に口なし」という嫌な慣用句とは逆に、作者は死者に声を与えることで無念に散っていった民衆ひとりひとりの魂を悼んでいるのである。権力者によってねじ曲げられ、時の流れとともに風化する歴史に、一本の楔を打つかのような烈々たる気迫を感じる一冊である。
戦死した八路軍の兵士たち、土地改革で虐殺された地主、大躍進政策の失敗によって餓死した村人。神樹開花とともに亡霊たちが甦り、立体映画のように過去を再現し、語り始める。
「世界は混沌として夢の如し。」とは本書の書き出しだが、まさに生と死、過去と現在、虚と実が渾然一体となった世界である。
ラストにガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』を想起したのだが、あとがきによればやはり意識しているとのこと。
もっとも、マジック・リアリズムはひとつの手法であって、作品を語る全体ではない。これは好みの問題かもしれないが、飢餓の生々しい描写や現在と過去を巧みにとけ込ませた構成、神樹伐採のために戦車部隊が出動してからラストまで走り抜ける緊張感ある筆の運びといったスケールの大きさでいえば、むしろ本書の方が上だと思う。
作者の鄭義(チョン・イー)は、1947年四川省生まれ。
文化大革命時代に毛沢東思想に対して批判的だったというのだから、後の苦境が推し量れるというもの。天安門事件以降三年間に及ぶ逃亡生活の末、アメリカに亡命。プリンストンで長篇小説『神樹』を書きあげた。
本書に登場する作家・武斌は、鄭義の分身なのだろうか。村人たち当事者とは距離を置き、起きた出来事をつぶさに見届ける観察者としての眼。これは、祖国から離れ、文化も言葉も異なる異国に身を置いたからこそ、書けた世界なのかもしれない。[Amazon]
中国:藤井省三・翻訳
monologue
すごい小説を読みました。
卑猥な言葉やグロテスクな描写のオンパレードには辟易しますが、ひとりひとりの人間の“生”が立ち上ってくるようで、圧倒されます。じつはこれ、数度の挫折を経てやっと読破した一冊なのです。
なにしろ600ページ近くのボリュームの上に、読みづらい中国人名!近代中国史についても最低限の知識がないと理解しにくいので、生半可に手を出すと、簡単に弾き飛ばされちゃいます。
でも読んでよかった!至福の読書体験でした。ところで、こんなにいい作品なのに、いまでは入手困難なのはなぜ?
鄭義の他の邦訳・『中国の地の底で』も、『古井戸』もことごとく絶版…。
文庫化とまではいわなくても、優れた中国文学をどんどん日本で紹介してほしいものです。



ホントに中国の作品って入手困難なものばかりですよね。
これもできれば読んで見たい作品です。
それにしても「赤い高粱」が手にはいるとは知りませんでした。
>piaaさん
紹介している作品自体が少ないのに、絶版は勘弁してほしいですよね・・・。
徳間書店から出ていた『現代中国文学選集』では「赤い高粱」全五篇が載っていたそうなので、
残りの三篇も文庫復刊してほしいものです。