『悼む人』天童荒太
『おくりびと』のアカデミー賞受賞に、『悼む人』の直木賞受賞。
映画と文学という違いこそあれ、「死」を真正面から取りあげた二作品が国内外で高い評価を得たことに、時代の変化を感じる。
完成に7年。真摯に死と向き合った試行錯誤の跡がうかがえる力作だと思う。が、釈然としない思いが残る。
作者は、死者が時とともに忘れ去られることや、数値化されること、人の死に軽重をつけることに疑問を抱き、この作品を執筆したのだろう。この世でたしかに生きていた、ひとりの人間として描く。その方向性は、けっして間違っていないと思う。
亡くなった人を、自分の中でどう捉えるか―。私自身、死者との距離感に悩んだことがある。悲しみに溺れてしまうと、生きる気力を失ってしまう。かといって、遠ざけてしまうのはあまりに寂しい。
ここで作者は、死者を悼む旅を続ける〈坂築静人〉というひとりの人間を創りあげる。誰の死も分け隔てなく悼む人。「ほかの人とは代えられない唯一の存在として覚えておく」ことに心を傾ける人を。
こんな人間がひとりくらいいてもいいんじゃないか、という作者の祈りに似た思いはよく分かる。けれど、肝心の静人にどうしても寄り添えないのだ。
彼は新聞などで得られた情報をもとに、死者を訪ね歩く。その性質上限界があるのは仕方ないが、それでもどうして病死した者を探そうとしないのか、とか、なぜ悼む相手は人間だけなのか、といった疑問は残る。
ただそれよりも私が引っかかるのは、彼が「死者を覚えておく」ことに集中するため、感情を抑えて「その人は誰を愛したか。誰に愛されたか。どんなことで人に感謝されたことがあったか」という三つの問いだけを訊いてまわるところである。
人の死を前にして大事なのは、ただ「忘れない」ことではなく、悲しみ、憤り、涙し、今ある生を慈しみ、これから生まれ出る命を守ろうとする、そんな「人間らしい」感情を抱くことではないのか。静人の「悼み」とやらは、死の報道に麻痺してしまった人間と、一体どれほどの違いがあるのだろう。
そして考えなければならないのは、誰かの記憶に残るか、ではなく、自分が何を残せたか、ということだと思う。結果は同じかもしれないが、後者にはより能動的・自立的な意思がある。静人の母・巡子の凛とした生き方を通して「死(あるいは命)」を見つめた方が、心を打つ小説になったのではないだろうか。[Amazon]



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