『白い牙』ジャック・ロンドン

白い牙 (光文社古典新訳文庫)たとえば、ままならない現実に愚痴をこぼしたくなる時。あるいは、なんとなくやる気の出ない時。またあるいは、将来に漠然と不安を抱えている時。
そんな時、ジャック・ロンドンの小説はよく効く。ただし、優しく慰めてくれるのではなく、「甘えんなよ!」と思いっきり張り手を喰らわされる、という意味でだが。

『白い牙』は、先に発表された『野性の呼び声』を反転させたような物語である。
飼い犬が極北の過酷な環境に鍛え上げられ最後は野生に戻ってゆく前作に対し、本書は犬と狼の混血として生まれた〈ホワイト・ファング〉が人間に飼われ愛情を知るようになるまでが描かれている。
ともに主人公は動物。貫かれているテーマも、作者流の生命哲学も同じ。と書くと新鮮味に欠ける作品に思われるかもしれないが、決してそんなことはない。

半端な感傷を排したドライな筆致、圧倒的な自然描写、息詰まる死闘は、読み手を有無を言わせず物語に引き込む力強さがある。ロンドンの作品といえば、血と暴力で彩られたハードボイルドな描写に目を奪われがちだが、この新訳版を読めば、ひとつひとつの言葉に至るまで非常に細やかに書き込まれていることに驚かされるはずだ。

本書は五部構成からなるが、孤高のヒーロー〈ホワイト・ファング〉が登場する前の第一部がもっとも読み応えがあると思う。訳者あとがきでも触れてあるが、中篇小説としてひとつの作品になり得る完成度の高い内容である。
死者を収めた箱を犬橇で引かせ、雪に覆われた大地を歩むふたりの男。厳しい自然と対峙する彼らの後方からは、飢えた狼の群れが追って来る。一頭、また一頭と姿を消してゆく橇犬たち。張りつめた緊迫感。硬質な文体は、死と隣り合わせの生、今ある命の尊さを、目を逸らすことなく描き出す。
反対に、野生の狼の生態を綴った第二部は冗長に感じる。第一部とのこの落差はなんなのだろう。

生きるか、死ぬか。食うか、食われるか。やるか、やられるか。
究極の二者択一で展開されるので、〈ホワイト・ファング〉の心の揺れが異色に思えるほど際立って映る作品である。野獣の掟で生きてきた主人公が、愛情深い飼い主に触れることで生じる、さまざまな葛藤や心の変化。鋭い牙で獲物を仕留める強さよりも、そんな迷いや弱さを、私はとても愛しく思う。
『野性の呼び声』の読後感は、なぜだか無性に叫びたくなるものだったが、本書を読み終えた後は、あたたかいもので包まれたような満ち足りたものであった。[Amazon]

アメリカ:深町真理子・翻訳

ホワイトファング [DVD]
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