『望郷の道(上・下)』北方謙三

望郷の道〈上〉望郷の道〈下〉待っていた、なんてものじゃない。むしろ、遅かったじゃないか、という思いの方が強い。
本作は、日本経済新聞朝刊に約一年にわたって連載されていたものである。
新聞小説なんて暇つぶしにざっと目を通す程度だったのに(作家の皆さま、ごめんなさい)、これにはハマった。こんなに夢中になって小説を読んだのは、いつ以来だろう。最初はなんとなく続きが気になり読んでいたのが、やがて記事をそこそこに切りあげるようになり、一面の前にまず文化面、となるまでさほど時間はかからなかった。
朝が苦手な私が爽快なスタートを切れたのは、ひとえにこの小説のおかげだ。二分冊のボリュームが意外なほど、まったく長さを感じさせないおもしろさである。

明治初期の九州と台湾が舞台。
連載時、さぞや「バナナキャラメル」「新高製菓」の検索ワードが急上昇したことだろう。製菓業で一時代を築いた夫婦をモデルにした小説である。作者の曽祖父母にあたるそうだ。
福岡・遠賀川で家業の船の運送業を手伝う小添正太と、佐賀で家業の三つの賭場を取り仕切る藤瑠イ(イは王+韋)。藤家の婿養子となり、持ち前の才覚で賭場を拡大してゆく正太だったが、ある事件をきっかけに九州追放の身となってしまう。未読の方の興を削ぐといけないので伏せるが、家族を守るために己を犠牲にした男の苦悩が胸を打つ前半だ。

さて物語は、故郷を捨てた正太が勃興期の台湾へ渡り、裸一貫で生き直すところからさらにおもしろくなる。
先を読み、即断即決で次々と手を打つトップの姿勢。人材活用のコツ。良質な原料の調達。効率的なマーケティング。競合相手との駆け引き。事業を興し、キャラメルと饅頭の製造販売でのし上がってゆく後半は、経営のケーススタディとしても読めて興味深い。

この作品は、情熱的で気風のよい正太と瑠イの人物造形が魅力的なのはもちろん、ものづくりに執念を捧げた人々の熱い息づかいも見事に捉えた小説である。
「せっかく生きとるんじゃもんな。ほんなこつ、生きとったと思いたかよ」とは正太の言葉だが、人間、ただ呼吸し、心臓を動かしているだけでは生きているとはいえないのかもしれない。限られた生の中で自分はこれをやり切った、と満足できるぐらい必死に戦うのでなければ―。
生きることの誇り、夫婦の絆、家族愛を高らかに謳いあげた『望郷の道』は、登場人物たちのひたむきさ・懸命さに、どうしようもなく心が揺さぶられてしまう素晴らしい作品である。[Amazon]

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