『幼年時代』トルストイ
トルストイの自伝的小説。
本書は、北御門二郎氏の未発表翻訳原稿(1979年3~6月)を出版したものである。「なぜ今、この作品?」と不思議に思ったところ、『幼年時代』『少年時代』『青年時代』三部作の出版は、亡き訳者の希望だったそうだ。
というわけで、今回新たに登場したといっても「新訳」ではない。ただ個人的に、北御門氏の翻訳には感慨深いものがある。
何をもって「名訳」というのか私にはよく分からないが、その作品や作家にとくに強い思い入れを持った訳者に手がけられた作品は幸せ者だなあ、と思う。トルストイ作品をこよなく愛し、自らの人生の指針とした北御門二郎氏。『文読む月日』のカバー折り返しには、こんな言葉が紹介されている。
翻訳に大切なことは、原書に感動し、読者とその喜びを分かち合いたいと思うこと。だからトルストイが涙して書いたところは、私も泣いて訳します。
こんなにも愛情をもって紹介された作品というのは、読者としてもやはり嬉しいものである。
「私の物語を読むに当たって面白おかしいことを探し求めるのではなくて、心を打つものを探し求める人であること」という注意書きが冒頭に記された本書。
10歳のウラヂミール・ペトロウィチが見つめた世界は、けっしてドラマティックなものではないが、生の輝きと喜びに満ち満ちている。
裕福な貴族の家で生まれ育ったウラヂミール。家政婦や家庭教師と過ごす日常、友だちとの無邪気な遊戯、ほのかに芽生えた初恋、心躍る狩猟、田舎から都会モスクワへの旅立ち、母との別離。主人公の姿に託して綴られてゆく物語には、作家の、幼い頃を懐かしむ優しいまなざしが注がれている。
往きて還らぬ、こよなく楽しかりし幼年時代の日々よ!どうしてその思い出を愛で慈まずにいられよう。その思い出は私の魂を浄め、高めてくれ、私にとってこの上もない喜びの源となってくれる。(P.87)
処女作でもあるこの『幼年時代』は、文豪トルストイの出発点を探ることのできる一冊といえる。とりわけ、鋭い人間観察眼と瑞々しい心理描写は素晴らしい。ひとりひとりの性格を描き分ける人物造形の巧さは、この頃から抜きん出たものがある。
なかでもおもしろいのが、主人公の描写。
自分の容姿にコンプレックスを抱いたり、初めて作った詩を家族の前で緊張して詠んだりする様子(本人はいたって真剣)は、なんとも微笑ましい。作中、頭のてっぺんの毛が立っている主人公の外見が妙に印象に残ったのだが、どうやら表紙の絵を描いた山本容子さんも同じみたいだ。[Amazon]
ロシア:北御門二郎・翻訳



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