『ナイン・ストーリーズ』J.D.サリンジャー

ナイン・ストーリーズサリンジャーの小説は、とっつきにくい。ただ文字を追うだけだと、何がなんだかよく分からないままに終わってしまう。
けれど、こちらがほんの少し感性を研ぎ澄ませて臨めば、驚くほど美しい世界を見せてくれる。

自選短篇集であるこの『ナイン・ストーリーズ』は、奇跡のような一冊だ。
ここに収められた9篇いずれも、おそろしく完成度が高い。繊細で洒落た技巧が凝らされた中に、切ないほどの優しさと愛情が注がれている。少し前、村上春樹がエルサレムで投じたスピーチが話題になったが、彼の言う「壊れやすい卵」とは、例えばサリンジャーの小説に出てくる人びとのことなんじゃないか、と思う。
これは、世界の深淵をふいに覗いてしまった人の物語。
世の中に順応できず、生きにくさを感じている人の物語。
人知れず傷を負い、なにかを決定的に失ってしまった人の物語。
ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)
高校生だったかつての私は、手に取るにはまだ早すぎたのか、本書の魅力を半分も味わえなかったのを覚えている。それでもなぜか、喉に刺さった小骨のようにずっと心に引っかかるものがあった。
そして、今。心が震える。登場人物一人ひとりの憂鬱が、心の痛みが、ぐっと近くに感じられる。ああ、こんな小説だったのか。

仮にもサリンジャー・ワールドに足を踏み入れることができたのは、もちろん私があの頃より大人になったこともあるだろうが、現代的に生まれ変わった訳文に依るところが大きいように思う。
そもそも言葉遊びが盛り込まれた粋なアメリカ口語は、原文で読んでこそ、そのおもしろさが分かるというもの。とはいえ、「08年の若者の話し方を意識して訳した」という柴田元幸訳は、50年以上前の作品をビビッドな感覚で見事に現代の日本に蘇らせたといえる。野崎訳より登場人物が幼く感じるのは、今の若者の精神年齢を皮肉っているのか。

戦争によるPTSDやマイノリティーの厳しい現実など、ここで描かれている内容は深刻なものなのに、作者の筆は感傷に溺れることなく、ふわりとユーモアでくるんでみせる。
私お父さんに、お前は全然ユーモアのセンスがないって言われたわ。ユーモアのセンスがないから人生に立ち向かう態勢が出来ていないって」(P.164)とは作中の台詞。   
悲惨で理不尽な世界に立ち向かうには、そんな状況すら笑いに変えられるたくましさが必要なのかもしれない。閉塞感にあえぐ今こそ、読まれるべき一冊。[Amazon]

アメリカ:柴田元幸・翻訳

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