『哄う合戦屋』北沢秋

哄う合戦屋

  • 北沢 秋/イラスト:志村貴子
  • 双葉社
  • 1470円

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書評/歴史・時代(F)


合戦の度に、単騎でいくさをしているような功名を重ねていながら、烏の群れに紛れ込んだ鵜のように一徹はいつも一人きりだ(P.133)

し、渋い。渋すぎる…。
内容はいたって地味なので、志村貴子のカバー絵と杏の帯文という強力なプッシュがなければ、歴史・時代小説コーナーの奥でひっそりと眠っていそうな一冊である。戦略というものを題材にした作品だが、出版社および書店サイドの売り込みのうまさにあっぱれ。
とはいえ、中身はけっしてお粗末なものではない。むしろ、想像以上におもしろかったのでちょっと吃驚してしまった。人材活用自己実現についてしみじみと考えさせられる戦国小説である。

1549年、武田と長尾両雄に挟まれた中信濃が舞台。
小豪族が割拠する中、土豪・遠藤吉弘が善政を敷く三千八百石の領地があった。この地に流れ着いた石堂一徹という名の浪人が、物語の主人公である。
武勇は信州一円に鳴り響くいくさ上手ながら、無愛想極まりない。そんな武骨な男が、遠藤家の軍師として仕えることとなってから次々と近隣の土豪を打ち破り、ついには主君を二万石の大名にまで押し上げていく。

指揮した戦いでは負けなしの名戦略家を描いているが、作品を貫くのは「敗者の美学」とでもいうべき愚直な生き様である。
比類ない軍事的才能を持ちながら、その能力を存分に活かす機会に恵まれない。世間に自分という存在を、その能力を正当に評価されたいのに、叶わない。孤高の合戦屋の悲痛な心の叫びが、切ないまでに響き渡る。
諸葛亮孔明に劉備あり。張良に劉邦あり。考えてみれば、軍師というのは使いこなせる度量の大きい主がいてこそ、その真価が発揮できるというもの。逆に言えば、人望にも主にも恵まれない野心家というのは、一徹のように鬱屈した思いを抱えて流浪するしか道はないのかもしれない。

また本書は、組織の中の個人を描いた作品ともいえるだろう。
和を尊び、武士道を貫くいかにも“日本人的”な遠藤家に突如現れた一徹は、価値観も目指すべきものもまったく異なる人間であった。まさに烏の群れに紛れ込んだ鵜のごとく、声をあげればあげるほど、その存在はますます周囲から浮いてしまう。
組織対個人としてみた場合、主人公の抱くジレンマやもどかしさというのは、現代にも通じるところがあるように思う。

「勝ち組」「負け組」と安易に二元論化する昨今。
そもそも、なにが「勝ち」でなにが「負け」かなんて、いったい誰が決めるのだろう。
周囲からの評価に固執していた一徹が、愛する女性のため敢えて負け戦に身を投じたとき、心が解放され真の勝利を得たのではないか。そして、その充足感は、誰人も犯すことができないものなのだ。
最後に響き渡る一徹の哄笑は、結局のところ、自分自身が己の価値を決めるのだ、とでも言っているようである。[Amazon]

本書は、本が好き!経由で献本していただきました。

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